大正六年。お雪を足抜きして大滝一家に追われていた清吉を、一匹娘の長次郎が助けてやった。長次郎はその時、大滝一家の客分龍次を知った。一方、清吉はお雪と共に新潟に逃がれ、実兄の勝五郎の許に転り込んだが、勝五郎はやくざから足を洗っていた。そのため、清吉は土地の嶋岡一家の身内になった。彼を追う龍次は新潟に来て、嶋岡一家が貧しい農家から女を買い、東京に売りとばしているのを見て憤激した。また清吉も女を食い物にする嶋岡のやり方に怒って女を逃がし、嶋岡一家にも追われる身になってしまった。そのため、勝五郎がすさまじいリンチを受けるはめになったがちょうど故郷の新潟を訪ねていた長次郎に助けられた。清吉と会った龍次は、女を助けようとする清吉の正義感に打たれ、堅気になるよう説得した。だが、それを素直に許す嶋岡ではない。しかも、それをかけあいに行った龍次は、大滝一家の代貸源吉に...
清水港次郎長、お蝶夫婦のもとに、渡世人小政が次郎長一家の投げ節お仲の消息をもって駈けつけた。お仲は赤鬼金平の仇討ちに次郎長一家を狙う、甲府猿屋勘助の行動を探ぐりに行ったのだが、折から勘助の所へ草鞋を脱いでいた小政の眼力で人質として捕われたのだ。小政は次郎長と勘助のもめごとを知らず、一宿一飯の恩義を感じながらも、勘助の汚いやり方に怒り、次郎長に事の仔細を知らせたのだった。小政の案内で旅姿も颯爽と甲州路を急ぐ次郎長一家、これに江尻の大熊も乾分、お蝶を連れて加わった。大勢の乾分を連れて待ち伏せた勘助だったが、遂に次郎長の手で鮮血にまみれ、お仲は無事救出された。渡世仁義の掟でも喧嘩は喧嘩、兄貴分の大熊と別れて、次郎長一家は病弱なお蝶を連れ、兇状旅に出た。こんな次郎長一家の姿を見た石松は、勘助殺しの下手人として自首して出ると言っては、次郎長お蝶に涙さすのだった...
『大空港』(だいくうこう)は、1978年(昭和53年)7月24日から1980年(昭和55年)3月24日に全78話が放送されたフジテレビ月曜9時枠の連続ドラマ。制作は松竹。
開港直後の新東京国際空港内に設けられた警察庁刑事局国際刑事課の分室「空港特捜部」が空港または空港近辺で発生した事件を解決する姿を描く。
空港特捜部のメンバーは戦中派の加賀と彼を補佐するベテラン刑事、それに若手の部下たちで構成されている。本作では通常の刑事ドラマに見られるような事件も扱うものの、舞台が「空港内の警察」という特殊セクションであるため、描かれる犯罪は国際的で大掛かりなものが多く、刑事たちが海外出張して捜査するケースもたびたび見受けられる。また空港特捜部のメンバーの交代が激しく1年半の放送期間内に4名が殉職、新加入が5名おり、その殉職エピソードでは爆弾が仕掛けられた飛行機の...
大正14(1925)年、侠客の飛車角(鶴田浩二)は恋人おとよ(藤純子)をめぐって人を斬り、その逃亡の途中で、老侠客吉良常(辰巳柳太郎)と出会い、彼の勧めで自首する。しかしその投獄中、おとよは玉の井に身を売り、客の宮川(高倉健)と愛し合うようになってしまう……。
尾崎士郎の名作小説『人生劇場』の第3部『残侠篇』を名匠内田吐夢監督のメガホンで映画化。幾度も映画化された『人生劇場』の中でも最高傑作の誉れも高い名作任侠映画である。鶴田の演じる飛車角も、任侠と愛の苦悩をにじませた優れもの。また脇に至るまでの東映オールスターキャストがそれぞれ柄に合った好演。殺陣のすさまじさも含め、任侠映画ファンは一度は観ておくべき作品である。(増當竜也)
内容(「GAGAデータベース」より)
尾崎士郎原作による大河小説「人生劇場残侠篇」を、巨匠内田吐夢監督が映画化した...
1971年5月(東映東京)の作品です。企画は俊藤浩滋吉田達、監督は佐藤純弥、脚本は村尾昭です。えらい作品タイトルです。しかし、このタイトルに騙されました。実に「東映型民主主義」が凝縮された作品でした。良かった。
主演は鶴田浩二。関東一の巨大ヤクザ組織の幹部で、刑務所から出所したばかり。昔かたぎで斬った張ったタイプのヤクザ。親分は近衛十四郎(松方弘樹の実父)。経営手腕に優れた兄貴分に丹波哲郎。この鶴田と丹波が組の方向性をめぐってしばしば対立します。
ムショ帰りの鶴田が大事な港湾荷役の新規事業を任せられ、「アンコ」(港湾労働者)を酷使しながらどう事業を軌道に乗せるかがその任務。最初は、地元のヤクザ(街田京介ら)が仕切っていた港湾労働を実力で粉砕し(親分を殺し)、その仕事を分捕ります。子分には室田日出男、渡瀬恒彦など。アンコたちに対しても平気で詐欺まがい...
「戦いに勝ち目はない。然し、戦わねばならない。せめて可能な限りの打撃を与えて敵の戦意を挫き、戦争終結のきっかけを作らなければならない」第一航空艦隊司令長官杉浦中将は第二十六航空戦隊司令官矢代少将に向ってこういった。その時、日本軍はすでに、マリアナ沖海戦惨敗とサイパン島の玉砕によって、西太平洋の制海権を完全に失っていた。そしてまた米第七艦隊は全力をあげて、ルソン島レイテ湾に殺到していた。海軍大尉宗方が、辺見中佐より第一次特別攻撃隊搭乗員の人選を命じられたのは、南方海戦の飛行基地においてであった。宗方は即座に志願し、他の志願兵を募った。隊員のほとんどが特攻隊を志願した。その朝、特攻機は次々に発進していった。その中の一機には、矢代少将が乗っていた。少将は、自らの命を投げうつことによって、戦局を収拾したいと思ったからであった。しかし編隊は、敵機動部隊の上空に...